弟の千尋さん「京都土佐塾」で青春 寮の名札、やなせさんの元へ
2025.06.13 08:39

やなせたかしさんの弟、千尋さん(1921~44年)は京都帝国大学に進み、高知県出身者の学生寮「京都土佐塾」で仲間と短い青春を謳歌(おうか)した。どんな寮で、どんな生活を送っていたのか。
やなせさんが「明るく、成績も良く、快活」と自慢していた千尋さんは1941(昭和16)年4月、京都帝国大学法学部に入学。大学にほど近い、京都市左京区にあった「京都土佐塾」に入った。
寮は28年、本県出身の京大生が出身者の寄宿舎を造ろうと決め、翌年に大学近くの貸家に7人で暮らしだしたのが始まり。出身者の浄財も得て33年、左京区の約千平方メートルの敷地に、県出身の病院長が提供してくれた旧病棟(木造2階建て)2棟を移転改築し、北寮と南寮とした。
定員は約20人。「自主自立」をうたい、学生が運営していた。
安芸市出身の作家、門田隆将さんが千尋さんの生涯を追った「慟哭(どうこく)の海峡」(KADOKAWA)に、千尋さんの幼なじみ、広井正路さん(2008年に86歳で死去)の長男(故人)に聞いたという話が出ている。広井さんは千尋さんと南国市の後免野田小からずっと同じ学校に通い、同じ寮に入った。
本では、面長の千尋さんには「馬」のあだ名が付いていたとし、寮の近くの運動場でキャッチボールを楽しんだり、寮の仲間と古寺を巡るハイキングをしたり、同級生と酒を飲んで哲学を語り合ったりしたことが紹介されている。

寮の高知OB会事務局を務める田中宏昭さん(67)=高知市=は「OBで集まると、広井さんは千尋さんの話をよくしてました。物静かで男前だったと。男前という言葉をかなり強調していました」。
寮からは大文字山が望め、夏の送り火を屋上から眺めることができた。「門限もなく、上下関係は緩やか。酒を飲み、夜遅くまで人生を語り合う。千尋さんがいた当時も同じだったようです」
広井さんの遺族の元に、寮の前で撮影した1枚が残る。

撮られたのは太平洋戦争が始まった1941年12月。「ラヂオは又臨時ニュースを叫んでゐる頃、目出度く新学士となられ、退塾せんとする八名の三回生を囲んで」という添え書きが残る。
当時、大学は3年制だったが、戦時の非常措置として半年短縮された。千尋さんは43年9月に卒業し、海軍予備学生として出征することになった。
12日放送のNHK連続テレビ小説「あんぱん」では、北村匠海さんが演じる柳井嵩の元を、弟の千尋(中沢元紀さん)が訪ねてくる場面があった。
実際、千尋さんは、福岡県の小倉にいた兄の元に足を運んでいる。やなせさんは「兄貴は生きて絵を描いてくれ」と遺言めいた言葉を伝えられた、と書き残している。これが兄弟が過ごした最後の時間となった。
44年12月30日、千尋さんは台湾南のバシー海峡で駆逐艦に乗船中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて海に沈んだ。
◇ ◇
京都土佐塾は54年、土佐育英協会の管理となった。
改築により70年に、鉄筋コンクリート3階建ての北棟と2階建ての南棟、食堂棟ができた。ただ、老朽化が進み、学生確保の見通しも立たないことから2010年に閉寮した。80年余りの歴史で卒寮生は700人に上る。

寮の廊下に、歴代塾生の名を記した木札が掲げられていた。千尋さんの名もあった。OB会の田中さんは13年、やなせさんが94歳で亡くなったというニュースを受け、取り壊される前の寮に入って木札を入手。墓前に供えてもらおうと、やなせスタジオに渡した。
寮の跡地は住宅地になった。一角にある飲食店の前に「京都学生寮土佐塾跡地」との記念碑が立っている。 (村瀬佐保)
【あんぱんの〝蘭子〟】暢さんの妹はやっぱり真面目? やなせスタジオの金庫番「数字に明るく、きっちり」
2025.05.18 08:45

NHK連続テレビ小説「あんぱん」でヒロインの妹、蘭子(河合優実さん)はしっかり者として描かれている。ヒロインのモデルとなった、やなせたかしさんの妻・暢さんの妹、瑛(えい)さん(1920~2003年)も実際にきちょうめんな性格で、やなせスタジオの金庫番を務めたことも。瑛さんの人生をたどった。

暢さんは、総合商社「鈴木商店」で働く池田鴻志さんと、登女さん夫妻の長女。きょうだいは兄1人と妹3人(末の子は幼少期に死去)で、2歳下の次女が瑛さんだ。高知で生まれ、暢さんと同じ大阪の阿倍野高等女学校を卒業した後、古里に戻っていた。
「ミロク製作所の前身の会社で事務員をしていたとか。数字に明るく、きっちりした人でした」。愛媛県今治市で菓子店を営む、瑛さんの次男、川上峻志(たかし)さん(81)が語る。
そんな瑛さんが恋に落ちた相手が、今治市出身の曽我部鹿一さん。豪農の次男で、東京帝国大学卒。親から資産家の娘との結婚を命じられて「言いなりになりたくない」と反発し、南国市後免町で小学校の教員をしていたという。今治の親は2人の結婚に大反対だったそうだが、「控えめに見えても土佐のハチキン。意志が強かったんでしょう」。
晴れて夫婦となると、曽我部家の親戚を頼って旧満州(中国東北部)に渡る。農場を開き、従業員300人を雇うまでになったという。2男1女に恵まれたが、鹿一さんは兵にとられた。ソ連軍の侵攻に遭い、瑛さんは顔に墨を塗り、3人の子と今治に逃げ帰る。「父を慕う中国人従業員の手引きで、引き揚げ船に乗れたそうです」

夫は戦死。瑛さんは困窮のあまり、峻志さんを菓子店へ養子に出し、高知に戻った。この間、どうやって生計を立てていたのかは分からない。ただ60年代に暢さんに呼ばれて、高校を卒業したばかりの娘、玲子さんと上京した。
やなせさんの仕事が忙しくなってきた時期で、「暢さんはいきなり、通帳と金庫の鍵を母に渡したそうです。母が『こんな大金、怖い』と言うと、暢さんは『あなたを信用している』と」。
後に、瑛さんから仕事を継いだ越尾正子さん(やなせスタジオ社長)も、暢さんに通帳と金庫の鍵をポンと渡されたと明かしている。「私が悪い人だったらどうします?」と問うと、暢さんは「見る目がなかったと思って諦める」と返したそうだ。
「暢さんは思い切りのいい性格。母は人の言うことをきっちり守るし、そう言われたら断れないですよね」と川上さん。
暢さんは玲子さんをかわいがり、柳瀬家で引き取るという話も出ていたそうだ。「妹は『男勝りの暢さん』と。お互い、言いたいことをポンポン言い合ってたみたい」と苦笑する。
暢さんは93年、がんのため75歳で亡くなった。瑛さんも同じ時期に体調を崩す。越尾さんに仕事を引き継ぐと、2003年にがんで亡くなった。83歳だった。今は、今治市の軍人墓地で愛する夫と一緒に眠っている。
朝ドラの蘭子は郵便局で働き、思いを交わした男性は出征中。峻志さんは「設定は全然違うけれど、大人しく控えめで真面目な感じが母に似てますね」と喜んでいる。
(村瀬佐保)